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参考文献
『道徳の系譜学』(ニーチェ著, 中山元訳, 光文社古典新訳文庫)

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動画の内容まとめ
現代人の特徴
現代人は、奴隷であり、賤民であり、家畜の群れです。そう、飼いならされた家畜、あるいは、飼いならされることを自ら望んでいる家畜の群れです。
現代人は、感情が柔弱で恥ずべき存在です。こぢんまりと下劣に生きようとしています。
人生そのものが味気ないものに感じ、自分自身に鼻をつまんで立ちすくむようになり、非難がましいまなざしで自分を眺めています。そんな現代人の趣味は、自分の嫌いなものの一覧表を作成することです。
自分自身に価値を認めることができないので、外にあるもの、他なるもの、自己ならざるものを否定することしかできません。
自己への軽蔑の土壌に、復讐と怨念の蛆虫がうごめいています。この癒しようのない凡庸で生気のない蛆虫がうごめいています。
自分は弱い者だと諦め、静かに待っていることを美徳としていますが、そんなことは虫にすらできることです。
人間を恐れることを忘れるとともに、人間を愛することも、人間を尊敬することも、人間に期待をかけることも、人間たることを意志することもなくなってしまったのです。
無力であるがゆえの憎悪(ルサンチマン)
彼らは無力な者で、抑圧された者です。毒を含み、敵意を持った感情で化膿しています。
彼らは無力です。無力であるがゆえに、その憎悪は法外なもの、不気味なものにまで強まり、きわめて精神的なもの、有毒なものにまで成長します。そんな彼らの復讐する手段は、敵対する者たちにとって貴い価値があると考えているものを根本的に否定するしかありません。行動によって反応することができないので、精神的な復讐、想像だけの復讐という行為によって満足するしかないのです。
苦悩する彼らは、出来の良い者や勝ち誇る者にたいして陰謀の網を張っています。勝ち誇った気配を示すだけでも憎まれてしまいます。そして、この憎悪がそもそも憎悪であることを認めないために、欺瞞が企まれるのです。飾り立てられた言葉と大げさな身振りで、出来損ないの者たちは中傷を「正しい中傷」であるかのように見せかけます。
自分の弱さこそが、まるで自分の功績であるかのようにうそぶいていますが、これは自己欺瞞です。
惨めであるのは、疑問の余地がありません。
現代という時代
道徳化された現代は未来を犠牲にしながら生き延びています。道徳には危険と誘惑と毒物と麻酔剤が含まれているのです。
わたしたちは道徳化された時代の犠牲であり、獲物であり、患者であります。
「道徳化された」とは、わたしにとっては、「飼いならされた」「弱くなった」「臆病になった」「繊細になった」「柔弱になった」「去勢された」ということを意味します。
不幸な者どもが、道徳を崇拝しています。おお、なんと悲壮なわめき声と熱心さで、そうすることでしょう!
人間が自らに対して恥辱の念を抱くようになればなるほどに、この世界の空気は陰鬱なものになるのです。
みずからに懐疑的なこの腐敗した現代よ!
人間に対する吐き気と嫌悪
出来損ないの者たち、卑小になった者たち、委縮した者たち、毒された者たちを眺めるときの吐き気を催すような気分から逃れらなくなります。
わたしたちが今日、「人間」というものに嫌悪を感じているのはどうしてなのでしょうか? というのは、わたしたちは人間というものに悩まされている、そのことは疑問の余地のないことなのです。
どうしても耐えがたいと感じているもの、始末に負えないと感じてるもの、息をつまらせるもの、やつれ果てさせているものは、汚れた空気、汚い空気、出来損ないの者が身近に迫って来ること、出来損ないの魂のはらわたの臭気をかがなければならないことなのです! それ以外なら何だって耐えられるのに。
卑小で平均的な存在となったことは、それに一瞥を与える者を倦ませます。
人間を一瞥すると、ひたすら倦むばかりす。人間というものに倦んでいるのです……。
このようなうつ状態に抵抗するために、機械的な作業で生存の苦悩を緩和しています。これは「労働の祝福」と呼ばれています。苦悩する者の注意が、苦悩しているという事実から逸らされてしまうのです。つねに一つの行為だけが意識にのぼるために、意識のうちで苦悩が占める場所がなくなってしまうのです。
絶対的な規則正しさ、考えることもなく几帳面に服従すること、どこでも同じ生活方法を繰り返すこと、時間を無駄なく利用すること、自分への無関心、そうあるように訓練するのです。
鬱状態との闘いにおいて、家畜の群れをつくることは大きな一歩であり、勝利でもあります。
みずからに悩みを抱える者たち、すなわち、すべての病的な人間は、重苦しい不快感と無力感をふり捨てることを望んでいるために、家畜の群れを組織することを本能的に求めるようになるのです。家畜の群れの存在するところには、この無力感の本能があります。
弱い者たちはたがいに結びつこうとするのです。弱い者たちが手を結ぶのは、結合することに快感を覚えるからです。結合することで、弱い者たちの本能が満足させられるのです。
個人の自己への嫌悪感を、共同体の繁栄の喜びによって紛らわせることができます。
病める動物
人間は人間であることに、自己自身に苦しむという、もっとも不気味で重篤な病にかかっています。
人間は他のどんな動物よりも病的であり、不安定で、移ろいやすく、不確かなものであることに疑問の余地はありません。人間とはまさに病める動物なのです。
あらゆる病める動物のうちで、もっとも長く、もっとも深く病める動物に違いありません。人間自身、このことに飽き飽きしていますし、うんざりしています。こうした倦怠が疫病のように流行っているのです。
このような病的な状態がますます常態になりつつあります。そのため、私たちはこれがもはや正常な状態なのではないかということを否定できないのです。
これは、これまで人間を襲った病のうちでも、もっとも恐ろしい病であることに、疑問の余地はありません。
人間において大いなる危険は病人です。悪人でもなければ、猛獣でもないのです。最初から運が悪い者たち、投げ捨てられた者たち、破壊された者たち、これらの者、すなわち、最も弱き者こそ、人間の生の土台を掘り崩して危険にさらす者であり、生と人間とみずからに対する信頼に危険な毒を注ぎ込み、疑念を抱かせる者なのです。
病人が健康な者たちをも病気にしようとしています。
人間は自分を是認することも、説明することも、肯定することも知らなかったのです。人間は自分の存在にどのような意味があるのかという問題に苦悩したのです。人間は病める動物だったのです。しかし、人間の問題はこの苦悩そのものにあったわけではないのです。「何のために苦悩するのか?」という叫びに、答えがないことが問題だったのです。
虚無への意志
より偉大になろうと意志している者をまったく眼にすることがありません。
人間のどんな偉大な運命の背後にも、さらに大きな「無駄なことだ!」というリフレインが鳴り響いています。
人間の意志は、自分が絶対に無価値な存在であることをどこまでも確実なものとしようとするのです。
自分を貶め、卑しいものとし、凡庸なものに均し、衰退させ、頽落させようとする意志が存在するのです。
なんと悲しげで狂った動物だろうか、この人間というものは!
人間に対する大いなる吐き気、そして、人間に対する大いなる同情、この二つを恐れなければいけません。この吐き気と同情が、この世に生み出したのが虚無への意志であり、ニヒリズムであるのです。
人間の意志は一つの目標を必要とするものだということです。何も意欲しないよりは、虚無を意欲することを望むものだということなのです。
【ニーチェの哲学解説一覧】
☆『ツァラトゥストラはかく語りき』からニーチェの思想を学ぼう!【ルサンチマン】【超人】【永遠(永劫)回帰】