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参考文献
『実践理性批判』(1)(2)(カント著, 中山元訳, 光文社古典新訳文庫)
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動画の内容まとめ
カントについて
イマヌエル・カント(1724~1804)

- 東プロイセンのケーニヒスベルク出身(現在のロシア領カリーニングラード)
- 生涯のほとんどをケーニヒスベルクで過ごした。
- 散歩が日課。
- 『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の三批判書が有名。
テーマ:自由は道徳放送の存在根拠であり、道徳法則は自由の認識根拠である。
テーマを少し簡単に言い直すと、「私たちは自由があるからこそ私たちの中に道徳法則を見出すことができ、さらに、道徳法則に従うときに私たちは自由を認識することができる」ということです。
一見すると矛盾を感じるかもしれませんが、実はそうではないということが今回のレクチャーで分かっていただけるとうれしいです。
まずは、道徳法則とは何かについて解説します。
①道徳法則と行動原理(格率)
道徳法則とは、私たちが行動をするときに従うべきルールのことです。では、どのようなルールに私たちは従うべきなのかを考えていきましょう。
道徳法則となるルールには以下の2つの条件があります。
- 普遍的であること
- 命法であること
まずは「普遍的であること」から説明します。
「法則」というものは、そもそも普遍的でないといけないのです。例えば、自然の法則である物理法則は、この宇宙の中であれば、いつでもどこでも成立します。
それと同様に、道徳法則も、理性的な人間なら誰にでも当てはまり、いつでも従うべきものでないといけません。
人は行動するときに、自分の中のルールに従って行動します。
この自分の中のルールのことを「行動原理」と言います。カントの著作の中では、この「行動原理」を「格率(かくりつ)」という言葉で表していることもあります。
例えば、「毎日23時には寝る」や「友人からの誘いは断らない」といったものが行動原理です。
そして、ほとんどの場合は、行動原理が道徳法則とはなりません。
なぜなら、ほとんどの行動原理は、個人の欲望によって規定されているからです。個人の欲望は主観的なものであり、すべての人に当てはまるものではありません。
例えば、「毎日23時には寝る」という行動原理は、夜活動をする人に当てはまりません。このようなルールは、普遍的な道徳法則とはなり得ないのです。
さらに、場合によっては行動原理どうしが対立することもあり、複数の行動原理から選択しないといけないときもあります。
例えば、「毎日23時は寝る」と「友人からの誘いは断らない」という2つの行動原理を定めている人が、23時以降に友人に誘われた場合、自らの欲望あるいは理性によって、どちらの行動原理を採用するか選択しないといけません。
このように、場合によって「する」か「しない」かを選択できるようなルールも普遍的な道徳法則にはなりません。
普遍的な道徳法則となるルールは、欲望に左右されないものでなければいけません。
そのために、道徳法則は「命法」、つまり、命令文の形で表現されたルールでなければいけないのです。
②命法とは何か?(仮言命法と定言命法)
「~しなさい」あるいは「~してはいけない」という命令文の形であれば、欲望に左右されないルールとなり、ときには欲望に反した行動を強制するルールともなります。
例えば、「21時以降に食事をしてはいけない」といったものです。
もちろん、どのような命令文でも道徳法則になるというわけではありません。「人を殴りなさい」といった明らかに道徳的ではないルールは、命令文の形でも道徳法則にはなりません。
では、「人に親切にしなさい」というルールは、道徳法則になるでしょうか?
実は「人に親切にしなさい」というルールも道徳法則にならない場合があるのです。
例えば、「周りの評判を高めるために、人に親切にしなさい」という行動原理で行動していた場合は、たとえ実際に親切な行動をしていたとしても、それは道徳法則ではないのです。
それは、「仮言命法」になっているからです。
「仮言」とは「ある仮定のもとで」あるいは「ある条件のもとで」という意味の言葉で、「仮言命法」とは「~ならば、~せよ」という形式の命令文のことです。
この仮言命法で表されたルールは、道徳法則にはなりません。
仮言命法の条件の部分、つまり、行動の結果得ようとするものは、主観的だからです。
先ほどの例で言えば、「周りの評判を高める」という個人的な見返りを得るために、「人に親切にする」という道徳的な行為を手段として用いているわけですが、「行動の結果、何を得たいのか」は、人や状況によって変わってしまうのです。
例えば、「親切にした人に褒めてもらいたいから、人に親切にする」という人がいたり、「自分が幸せな気持ちになるから、人に親切にする」という場合があるかもしれません。これらは主観的なので、道徳法則とはなりません。
では、どのような命令文なら道徳法則となるでしょうか?
それは、「定言命法」です。
「定言」とは「断言的に」あるいは「無条件n」という意味の言葉で、「定言命法」とは「~せよ」といった条件なしの命令文のことです。
例えば、「殺人をしてはいけない」などが定言命法です。
この定言命法で表されたルールであれば、行為の結果を考えていないので、その人の経験によらないルールとなります。
そのため、普遍的な道徳法則になる可能性があります。
道徳法則は定言命法で表されていなければなりませんが、定言命法で表されたルールが必ずしも道徳法則となるわけでもありません。
先ほども例として挙げましたが、「人を殴りなさい」といった明らかに道徳的でないルールは、たとえ定言命法でも道徳法則とはなりません。
では、「仕事をしなさい」というルールは、普遍的な道徳法則になるでしょうか?
これも普遍的な道徳法則にはなりません。
なぜなら、病気やケガで働けない人がいるからです。あるいは、仕事をしないで生きている人もいるかもしれません。
しかし、例えば「殺人をしてはいけない」というルールは、道徳法則になり得ます。
では、道徳法則になり得るルールとなり得ないルールの違いは何か分かるでしょうか?
普遍的な道徳法則となるのは、「すべての人がそのルールを行動原理として採用したとしても破綻しないようなルール」なのです。
このことは、カントの著作である『実践理性批判』で「汝の意志の格率(=行動原理)が、つねに同時に普遍的な法則としても妥当しうるように行為せよ」という言葉で表されています。
それでは、「自分の幸福を追求しなさい」このルールは道徳法則となるでしょうか?
「すべての人がそのルールを行動原理として採用したとしても破綻しないようなルール」かどうかを考えてみると、道徳法則とはなりません。
「自分の幸福を追求しなさい」という一見人類にとって普遍的に思われるルールも、道徳法則にはならないのです。なぜなら、すべての人が自らの幸福を追求した場合、世界が崩壊してしまうことが容易に想像できるからです。
このように、「道徳の原理と幸福の原理は別物である」ということは知っておいていただきたいです。
今までの話をまとめると、道徳法則とは「全ての人がそれを行動原理として採用しても世界が破綻しない定言命法で表されたルール」ということになります。
③道徳と自由
それでは、道徳法則とは何かを確認できましたので、道徳と自由の関係について解説します。
早速ですが、「自由」とは何でしょうか?
「好きなだけ寝る」「好きなものを食べる」「好きなだけゲームをする」……これらは自由ではなりません。
これらは欲望に支配されているからです。
欲望のままに生きるのは自由であるように感じられるかもしれませんが、実はそうではないのです。
なぜなら欲望とは、自然の法則によって生み出されたものだからです。欲望のままに生きるのは動物のように生きるのと変わらないということです。
先ほど挙げた欲望で考えてみましょう。(「好きなだけ寝る」「好きなものを食べる」「好きなだけゲームをする」など)
これらは全て自然の法則の必然性によって、そうしたいと思わされた欲望ではありませんか?
「好きなだけ寝る」「好きなものを食べる」は当然そうだと分かりますが、「好きなだけゲームをする」といった欲望も、ストレス発散のため、あるいは、承認欲求のために生み出されたものだと思います。
これも、生きているための必然性によってそうしたいと思わされた欲望であり、結局、生きていくためにそうしなければいけないと強いられている行動なのです。
このように、自然の法則、あるいは、生存のための必然性といったものに、そうするように定められたことをしている状態を自由と言えるでしょうか?
人は欲望のままに行動している以上、自分ではないものに支配されてしまうのです。
人間を自然界だけに生きる存在と考えると、自由は存在しません。なぜなら自然界は自然の法則が支配する世界で、自然界に生きる全ての存在は自然の法則から逃れられないからです。
しかし、人間には理性があります。
この理性によって意志を規定することで、自由を実現することができるのです。道徳法則を守ろうと理性が意志に働きかけることによって、自然法則に従わない自由を獲得できるのです。
例えば、王様に「お前の友人を無実の罪で陥れたいから、嘘の証言をしろ。もし嘘の証言をしなければ、お前を死刑にする」と命じられたら、どうしますか?
「嘘はつきたくないけど、死刑にもなりたくない」と悩まれると思います。また、本当にこの状況に陥った場合、嘘の証言をする人は少なくないかもしれません。
しかし、実際にどうするかは問題ではなく、友人のために自身の命を犠牲にするべきかを悩むことができること自体が重要なのです。
つまり、人は自信の命を犠牲にしてまでも、道徳的な行為をしようと思ったらできるのです。
この理性の働きは明らかに自然の法則に反しています。人間は道徳法則のために、自分の生存を蔑ろにする選択をしうるのです。
これこそ、人間が持っている自由です。
人間は自由な意志を持っているからこそ、自然の法則に反したような道徳法則を私たちの中に見出すことができます。そして、道徳法則に従うことによって、自然の法則の必然性から自由になれるということを認識できるのです。
これが、「自由は道徳法則の存在根拠であり、道徳法則は自由の認識根拠である」という言葉の意味です。
④自律と他律
欲望に負けず、自分の中の道徳法則に従って行動することを「自律」と言います。
それに対して、自分以外の何かに支配されて行動している状態を「他律」と言います。
自由であるためには自律が必要ということになります。
そして、この自律によって、自然法則ではなく道徳法則に従って自由に行動することは誰もができることなのです。