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動画の内容まとめ
パレスチナの地理を確認
地中海に面し、エジプトの東に位置し、ヨルダン、シリア、レバノンに囲まれています。

この地域には現在主に2つの民族が住んでいます。
1つはユダヤ人で、ユダヤ人の大半はイスラエルという国に住んでいます。ユダヤ人はその名の通り、ユダヤ教を信仰する民族で、イスラエルに住むユダヤ人を「イスラエル人」と呼ぶこともあります。
もう1つの民族はアラブ人あるいはパレスチナ人で、パレスチナ自治区に住んでいます。アラブ人は主にイスラム教を信仰する民族で、「パレスチナ人」とはパレスチナに住んでいるアラブ人という意味です。

現在この2つの民族がこの地で争っているのです。
パレスチナ問題においては、重要な地名が3つあります。
- エルサレム
- ガザ地区
- ヨルダン川西岸地区

①エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの宗教にとって重要な都市であるため、エルサレムの支配を巡って、この3つの勢力が歴史上争っているのです。現在は、イスラエルがエルサレムを首都と宣言しています。
②ガザ地区は協定上パレスチナ自治区ですが、イスラエルが軍事封鎖している地域です。ガザ地区内部を支配するハマスという組織とイスラエルの間での激しい軍事衝突が断続的に起きています。
③ヨルダン川西岸地区はエルサレムと隣接している地域です。この地域も協定上はパレスチナ自治区ですが、大部分をイスラエルが軍事的に支配しています。
以上を踏まえた上で、パレスチナの歴史を見ていきましょう。
古代の歴史(ユダヤ人のルーツとユダヤ人弾圧の始まり)
古代の歴史に沿って、ユダヤ人のルーツから、ユダヤ人弾圧の始まりまでを紹介します。
【紀元前11世紀までの歴史】
- もともとは「カナン」と呼ばれており、ペリシテ人(「海の民」の一派、鉄器技術を持っていた)が住むようになってから「パレスチナ」と呼ばれるようになる。
- 紀元前15世紀ごろ:古代エジプトの支配下
- 紀元前13世紀ごろ:ペリシテ人の文明が栄えていたが、ペリシテ人は滅亡。ヘブライ人がモーセに率いられてエジプトからやって来る(出エジプト)。
紀元前11世紀ごろに、後にユダヤ人と呼ばれるようになるヘブライ人によってイスラエル王国が建設されました。首都はエルサレムで、このイスラエル王国がユダヤ人のルーツであると言えます。
【古代パレスチナの支配国家】
- イスラエル王国
- 新バビロニア
- アケメネス朝ペルシア
- セレウコス朝シリア
- ローマ共和国
- ローマ帝国
- 東ローマ帝国(ビザンツ帝国)
イスラエル王国は、2代目のダヴィデ王、3代目のソロモン王のもとで最盛期となりますが、ソロモン王の死後、北のイスラエル王国、南のユダ王国に分裂します。
紀元前722年に北のイスラエル王国はアッシリアという国に滅ぼされ、紀元前586年にユダ王国は新バビロニアという国のネブカドネザル2世によって滅ぼされました。その際、ユダ王国の人々は新バビロニアの首都バビロンへと連れていかれます。このことをバビロン捕囚と言います。
そして、紀元前539年にアケメネス朝ペルシアという国が新バビロニアを滅ぼしたため、バビロン捕囚によって捕らえられた人々は解放されます。このときユダヤ教が成立します。これ以降、ユダヤ教を信仰する人々はユダヤ人と呼ばれるようになります。
パレスチナを支配下アケメネス朝ペルシアは、紀元前4戦記ごろアレクサンドロス大王によって滅ぼされ、アレクサンドロス大王の後継者が建てたセレウコス朝シリアにパレスチナの支配は移ります。
そして、紀元前1世紀ごろローマ共和国のポンペイウスがセレウコス朝を滅ぼし、パレスチナはローマの属州となります。
ローマ共和国は紀元前27年にローマ帝国となり、紀元後395年にローマ帝国は東西に分裂しますが、ローマ帝国および東ローマ帝国はユダヤ人を激しく弾圧します。
なぜなら、キリスト教の開祖であるイエス・キリストを処刑したのはユダヤ人とされていたからです。キリスト教を国教とするローマ帝国は、ユダヤ人を「キリスト殺しの民」として弾圧したのです。
ここにユダヤ人に対する弾圧の歴史が始まります。
中世の歴史(イスラム帝国の支配とアラブ人のルーツ)
7世紀以降、1914年に勃発する第一次世界大戦までパレスチナは基本的にイスラム帝国の支配下となります。
【7世紀~第一次世界大戦までのパレスチナ支配国家】
- ウマイヤ朝
- アッバース朝
- セルジューク朝
- エルサレム王国(キリスト教)
- アイユーブ朝
- マムルーク朝
- オスマン帝国
エルサレム王国以外はイスラム帝国の王朝ですが、エルサレム王国だけキリスト教の王国です。これは11世紀ごろ第1回十字軍によって建国された王国で、この時代で唯一キリスト教がエルサレムを統治できた瞬間でした。12世紀にはアイユーブ朝のサラフ=アッディーンによって再びイスラム帝国の支配下に入ることになりますが。
イスラム帝国においてユダヤ教徒は「啓典の民」と呼ばれ、ジズヤという人頭税を払えば、生命と財産の安全は保障されていました。イスラム教徒はユダヤ教やキリスト教に対して、イスラム教と同じ一神教であるということで、一定の理解を示していたのです。
これらの王朝にはイラン人やトルコ人といったアラブ人以外の民族も混ざって暮らしてはいますが、現在アラブ人と呼ばれる人々のルーツは、この時代に繁栄したイスラム帝国にあると言えます。
【イスラム帝国の支配民族】
- ウマイヤ朝:アラブ系
- アッバース朝:アラブ系
- セルジューク朝:トルコ系
- エルサレム王国(キリスト教)
- アイユーブ朝:クルド人
- マムルーク朝:トルコ系
- オスマン帝国:トルコ系
近代の歴史(パレスチナ問題の原因)
シオニズム運動、第一次世界大戦、三枚舌外交を中心に解説していきます。
近代においては、まず19世紀末に盛り上がるシオニズム運動をおさえておく必要があります。シオニズム運動とは、パレスチナにユダヤ人国家を建設しようとする運動のことです。
この運動のきっかけは、1894年のドレフュス事件でした。この事件はドイツでユダヤ系軍人のドレフュスが冤罪によって終身刑となった事件です。再審で無罪となりましたが、キリスト教世界における反ユダヤの根強さを象徴する事件でした。
この事件がきっかけでシオニズム運動が始まります。
- 少し先の時代になりますが、反ユダヤ主義が最大に表れたのは、ナチスによるホロコースト(ユダヤ人虐殺)です。ナチスはユダヤ人絶滅を掲げ、600万人のユダヤ人を虐殺したと言われています。
このようなユダヤ人に対する根強い反感と差別意識に対抗してシオニズム運動が盛り上がる中、1914年、第一次世界大戦が勃発します。イギリス、フランス、ロシアなど27カ国からなる協商国と、ドイツ、オーストリア、オスマン帝国、ブルガリア王国からなる同盟国の戦争です。
この時点ではパレスチナはオスマン帝国が支配しています。ちなみにオスマン帝国はイスラム化したトルコ人の帝国で、アラブ人はその支配下に入っています。
この大戦中に現在のパレスチナ問題の原因の一端とも言えることが起きます。
イギリスによる「三枚舌外交」です。「三枚舌外交」とは①フセイン・マクマホン協定、②バルフォア宣言、③サイクス・ピコ協定という矛盾した3つの取り決めのことです。
①フセイン・マクマホン協定は、1915年に結ばれた協定で、オスマン帝国に支配されているアラブ人たちに、オスマン帝国から独立してアラブ人の国家を建設することを条件にイギリスへの戦争協力を取り決めた協定です。アラブ人側はパレスチナもアラブ人国家の領域に含まれると考えていました。
②バルフォア宣言は、1917年にイギリスが同意した宣言で、パレスチナにユダヤ人国家建設を認める代わりに、ユダヤ人からの戦争のための資本援助を期待する取り決めです。
③サイクス・ピコ協定は1916年にイギリス、フランス、ロシアの間に結ばれていた秘密協定で、戦後のオスマン帝国の扱いを決めたものです。この秘密協定によるとパレスチナは国際管理をすることになっていました。
この3つの取り決めの内容を見てもらえば分かる通り、矛盾しています。この矛盾が現在のパレスチナ問題の下地を作ってしまったと言えます。
さて、第一次世界大戦は1918年に協商国の勝利で終わります。
敗戦国となったオスマン帝国(トルコ)はセーヴル条約により、イラク・シリア・アラビア半島、そして、パレスチナを失います。その後、イラクとシリアは独立、アラビア半島にもサウジアラビア王国が成立します。

しかし、パレスチナはイギリスの委任統治領となります。委任統治とは安定するまで先進国が保護をすることですが、実質的にはイギリスの植民となっていました。つまり、ユダヤ人と約束したバルフォア宣言は守られなかったということになります。
しかし、バルフォア宣言が出されて以降、パレスチナに移住するユダヤ人は増加しており、その流れを止めることはできませんでした。このことにより、パレスチナに住んでいたアラブ人(パレスチナ人)と移住してくるユダヤ人との間で争いが絶えなくなり、パレスチナ問題が深刻化していきます。
現代の歴史(中東戦争、平和への模索、やまない紛争)
第二次世界大戦後、イギリスによる委任統治が終わり、以降はパレスチナをユダヤ人とパレスチナ人の国家に分割するということが国連で決まりました。
これにより、1948年イスラエルが建国されます。
これに反発したエジプト、ヨルダン、シリア、レバノン、イラクのアラブ諸国はイスラエルと戦争を行います。これが第一次中東戦争です。

アメリカ、ソ連などの列強が支援したイスラエルが勝利し、イスラエルは領土を大きく拡大します。このとき、多くのパレスチナ人がパレスチナから追い出され、パレスチナ難民となります。
1956年に、エジプトがスエズ運河を国有化したことにイギリスとフランスが反発し、イスラエルと手を組んでエジプトを攻撃します。これが第二次中東戦争です。

イスラエルはエジプトのシナイ半島を占領しますが、アメリカとソ連および国連の要求により停戦し、イスラエルはシナイ半島から撤退します。

1964年に、パレスチナ難民は反イスラエル武装組織としてPLO(パレスチナ解放機構)を結成します。このPLO結成と、エジプトが対イスラエルの武装を強化したことを理由に、1967年にイスラエルがアラブ諸国と戦争をします。これが第三次中東戦争です。
イスラエルをアメリカが、アラブ諸国をソ連が支援しますが、イスラエル側の圧倒的勝利に終わります。このときイスラエルは、東エルサレム、ガザ地区、シナイ半島ヨルダン川西岸地区、ゴラン高原を占領します。

そして、エジプトとシリアが第三次中東戦争で失った領土を回復するために、1973年にイスラエルに奇襲をかけます。これが第四次中東戦争です。
この戦争の影響は世界に及びます。このときOAPEC(アラブ石油輸出国機構)がイスラエルの友好国に石油を全面禁輸したため、オイルショックが起きるのです。ちなみにOAPECとは、サウジアラビア、クウェート、リビアによる産油国の協力組織です。
- 1948年:第一次中東戦争
- 1956年:第二次中東戦争
- 1967年:第三次中東戦争
- 1973年:第四次中東戦争
このような4回の中東戦争を経て、和平への道が模索されるようになります。
1974年、アラファトが議長を務めるPLOをパレスチナ人の正当な代表と認め、PLOは国連総会での発言が認められるようになります。これでPLOは国連の準加盟国となります。
1979年には、エジプト・イスラエル平和条約が結ばれ、エジプトはイスラエルを国家として承認、イスラエルはエジプトにシナイ半島を返還します。これに対して、アラブ18カ国とPLOは反発し、エジプトと断交します。また、当時のエジプト大統領であったサダトは暗殺されてしまいます。
1993年にオスロ協定が結ばれ、イスラエルとPLOは互いに承認することとなります。これによりパレスチナ暫定自治政府が成立し、ガザ地区やヨルダン川西岸地区はパレスチナ自治政府による自治が確認されました。

このときの功績により、当時のイスラエル首相ラビンとPLOのアラファト議長はノーベル平和賞を受賞しています。
しかし、協定上はガザ地区とヨルダン川西岸地区はパレスチナ自治政府の自治が行われることになっていましたが、イスラエルが軍事的に支配しているのが実際でした。
そのため、パレスチナ人によるイスラエルへの抵抗運動「インティファーダ」がガザ地区やヨルダン川西岸地区で進展、過激化していきます。
その流れによって、ハマスという組織が設立されます。ハマスは「パレスチナにおけるイスラム抵抗運動」の略称で、急進的な組織です。2023年10月7日にイスラエルの音楽フェスを襲撃したのも、このハマスという組織です。
2001年にはイスラエルのシャロン首相が中東和平交渉の停止を宣言し、イスラエルとパレスチナの境界に分離壁の建設を開始します。分離壁とは隔離を目的とした壁のことで、イスラエルとヨルダン川西岸地区の分離壁は2002年から建設が開始されました。建設の目的は、自爆テロなど過激化するインティファーダから市民を守るためとされましたが、パレスチナ自治区に入り込んで建設されていることから、イスラエルの入植を既成事実化しようとしているののではないかと言われています。
このようなイスラエルの動きに対して、2006年にパレスチナの総選挙でハマスが第一党となります。EU、アメリカ、日本などはハマスをテロ組織と指定しているため、パレスチナへの援助を差し止めることとなります。
これ以降、パレスチナの内部でもハマスとファタハの抗争が起こります。ファタハはアラファト議長も所属していた組織で、イスラエルとの和平を追求する組織です。
そのような状況で、2007年にハマスがガザ地区を武力で占拠してしまいます。そして、イスラエルへのロケット弾攻撃を開始します。それに対して、イスラエルはガザ地区を空爆して対抗します。
これ以降、断続的にガザ地区において、ハマスとイスラエルの紛争が絶えないこととなります。そして、2023年10月7日のハマス攻撃と、それに対するイスラエルの反撃に至るわけです。