サイトアイコン 超塾 / 大学受験の王道

【アリストテレス】気前の良い人=美しさのための財貨を贈与・取得する人(財貨に関する悪徳:「浪費」「さもしさ」)【ニコマコス倫理学】

解説動画はこちら↓

動画準備中

☆チャンネル登録よろしくお願いします→ソフィロイドのレクチャールーム

参考文献

『ニコマコス倫理学』(上)(下)(アリストテレス著, 渡辺邦夫・立花幸司訳, 光文社古典新訳文庫)

Amazonリンク→https://amzn.to/4lf3j4m

動画の内容まとめ

四元徳以外の徳(アレテー)について

前回までで、「勇気」「節制」という四元徳のうちの2つの徳を解説しました。この2つは人柄に関する徳の中でも特に重要なものです。

しかし、徳は四元徳だけではありません。他にも多くの徳が存在し、それらは四元徳ほど重要ではないにせよ、徳を備えた人物となり人生全体を通じて徳に基づいた行為ができるようになるためには、それらを理解し身に着けることが大切です。

また、アリストテレスが論じている様々な人柄の徳は、古代ギリシア人の生活や思想が色濃く反映されています。中には現代人にとって古臭いと感じられるものもあるかもしれませんが、そうした価値観を知ることは、近代資本主義社会を相対化し、現代の生き方を見直すヒントにもなります。

そこで、これから数回にわたり、「勇気」「節制」以外の人柄に関する徳を紹介していこうと思います。

今回はその第一歩として、「気前良さ」について解説します。

財貨に関する徳で賞賛されるべきもの

「気前良さ」は財貨に関する中庸の徳です。これは財貨の「贈与」と「取得」に関する徳で、特に「贈与」において賞賛されるべきものです。なお、ここで「財貨」とは、貨幣によって価値が測られるものすべてを表しているとします。

それに対して、「浪費」と「さもしさ」が財貨に関する悪徳です。

財貨に関する行為は、「使用」(消費と贈与)と「所有」(取得と保全)に分けられますが、より徳が要求されるのは「使用」のほうです。つまり、「しかるべき相手から財貨を得る」とか「しかるべきでない相手からは得ない」といったことよりも、「しかるべき相手に財貨を与える」ことのほうが、より高い徳を必要とする行為なのです。

なぜなら、相手のためになることをすることのほうが、自分のためになる何かをしてもらうことよりも、いっそう徳にかなった行為だからです。また、「醜悪な取得を為さない」ということよりも、「美しい贈与を為す」ことのほうが、より徳にふさわしい行為と言えるでしょう。

さらに、「財貨を受け取らない」ことは「財貨を贈与する」ことよりもいっそう容易です。人は他人からものを受け取らないことに比べて、自分のすでに持っているものをなかなか手放さないことのほうが、より頻繁にあります。

ゆえに、より困難なことである「財貨の使用」を適切に行える人が、より高い徳を備えた人であると言えます。

「気前良さ」が財貨に関する徳である理由

では、どのような行為が徳にかなった財貨の使用と言えるのでしょうか。

それは、「美のために為された財貨の使用」です。

そもそも、徳に基づくもろもろの行為は「美しい」ものであり、その行為は「美のために」為されます。したがって、気前の良い人ならば美のゆえに、かつ正しい仕方で財貨を与えるでしょう。ちなみに、アリストテレスの言う「美」は以前のレクチャーでも解説しましたが、「共同体のためになること」という意味です。

「気前良さ」を身に着けている人(気前の良い人)は、「美しさ」のために、しかるべき相手に、しかるべき額を、しかるべき時に、財貨を与えます。ゆえに「気前良さ」に基づく行為は、徳にかなった行為であると言えます。

また、気前の良い人は、このような贈与を、喜んで、少なくとも嫌がらずに為します。というのも、徳に基づく行為は「快いもの」であり、「苦痛のないもの」であって、「嫌なもの」などでは全然ないからです。

それに対して、たとえ財貨を与えたとしても、以下のような場合は「気前の良い人」とは言えません。

美しい行為よりも財貨をむしろ選びたいという態度は、気前の良い人にふさわしいものではありません。

もっとも、気前の良い人はどんな贈与に対しても常に嫌な気持ちを持たないということではありません。例えば、しかるべきでない高額な出費をしたときは「嫌な思い」をしますし、それ以上に、しかるべき額の出費をするべき場面でそれができない場合は腹立たしい思いをします。

このように、しかるべき事柄に対してしかるべき仕方で行為をすることで快く思うかどうか、あるいは、それができないときは苦しむかどうかということが、その人の徳を表す指標となるのです。

「気前の良い人」の特徴

また、「気前良さ」は、贈与する財産の金額によって語られるものではありません。つまり、「○○万円以上贈与すれば気前の良い人、それ以下であればそうではない」といったような判断は適切ではありません。

なぜなら、徳(あるいは悪徳)というものはその人に備わっている性向のことだからです。つまり、気前良さの場合は、手持ちの資産に応じて適切に贈与する性向のことで、単に贈与の額面では判断できないのです。

そのため、乏しい資産の中からわずかな額のものを贈与するような人が、より多くの額の贈与を行った人よりも、むしろ気前が良いということも起こりえます。

また、しかるべき額が少額の場合は、気前の良い人はその額を超えて与えるようなこともしません。しかるべき事柄に関して、少額の事柄でも高額の事柄でも、ちょうどしかるべき額のものを喜んで与えるのが、気前良さの本質です。

ところで、「自分で資産形成をした人」よりも「資産を相続した人」のほうが、一般的により気前が良い傾向があります。これは、相続をした人が「貧乏」や「蓄財の苦労」を経験しておらず、資産に対してあまり強く執着をしないからです。それに対して、自分で資産形成をした人は、どうしても自らが築いたものに強い愛着を持ってしまうのです。

加えて、気前の良い人が裕福になりにくい理由もここにあります。なぜなら、気前の良い人は、財貨を「上手に得る人」でも「守り通す人」でもなく、「すぐに手放す人」であり、財貨を「財貨そのもののゆえに」尊重するということもなく、「贈与するために」尊重する人だからです。

そのため、贈与し過ぎたせいで、自分にはよりわずかのお金しか残さないことさえあります。なぜなら自分自身のことを顧慮しないことが、気前の良い人にそなわっている態度だからです。

「富にもっとも値する人々は富むことがもっとも少ない」というような不平の声が上がることもあります。財貨の所有への配慮をしないで資産家になることは極めて困難だからです。

とはいえ、気前の良い人が、誰にでもいつでも贈与するわけではありません。しかるべきでない相手に、しかるべきでない時期に、ものを与えるということはしないのです。なぜなら、それは気前良さに基づいた行為ではなく、そんなことにまで出費をしていたら、出費すべき事柄に向けて出費することができなくなってしまうからです。

「気前の良い人」の財貨の取得

さらに、「気前の良い人」は、財貨の「贈与」だけでなく、財貨の「取得」においても優れた性向を示します。

まず、気前の良い人は、しかるべきでない相手や方法で財貨を得てくることはしないでしょう。というのも、そのような取得は、財貨を「財貨そのもののゆえに」重んじない人にはふさわしくないものだからです。

また、他人に財貨をねだったり、一方的に恩義を受けたりすることにも平気ではいられません。このような振る舞い方は、人のためになることをする人にふさわしいものではないからです。

つまり、気前の良い人は、取得すべきところから、取得すべき額だけ財貨を取得するのです。そして、このように取得してきた財貨を使うことで、美のための贈与が行えるのです。

高潔な贈与には、それにふさわしい高潔な取得が伴います。それは言い換えると、高潔でない取得からは、高潔な贈与は生まれないということです。同じ人の中で、徳と悪徳という正反対の性質の行為が同時に実現することはありえないのです。

ゆえに、「気前良さ」とは、単なる財貨の贈与の徳にとどまらず、贈与と取得の両方に関する中庸と言えるでしょう。

財貨に関する悪徳①:「浪費」

「浪費」とは、財貨を使用することにおいて超過しつつ、財貨を取得することにおいて不足する性向のことです。

自らの資産に応じて使用すべき事柄のために使用するのが「気前の良い人」ですが、その使用が超過しているのが「浪費する人」です。

気前の良い人はしかるべき事柄にしかるべき仕方で財貨を使用したときに快さを感じますが、浪費する人は快さを感じません。また、気前の良い人はしかるべきでない事柄に財貨を消費してしまうことに苦痛を感じるものですが、浪費する人は苦痛を感じません。

そのため、このような浪費する人は往々にして、資産を早々に失い、自分自身の生活を破滅させてしまいます。

浪費をする人は、「とにかく他人に与えたい」という衝動に駆られており、「どのような仕方で与えるのか」「どこからその財貨を得てくるのか」ということには関心がありません。だからこそ、彼らの贈与は、たとえ多額であったとしても、気前の良いもの(徳にかなったもの)ではありません。

なぜなら、このような贈与は美しいものでもなく、美のためでもなく、しかるべき仕方のものでもないからです。

このような贈与の結果、本来財貨を受け取るべきではない劣悪な者を富ませてしまうこともあります。徳を備えている人や本当に必要としている人には何も与えない一方で、へつらう人や快楽を自分に提供してくれる人に、多くの財貨を与えてしまうということが起こり得ます。

このような浪費をする人は、行為の美しさのことを全く考慮していない人とも言えます。

財貨に関する悪徳②:「さもしさ」

さもしさとは、些末な事柄における場合という限定付きですが、財貨の贈与において不足し、取得において超過するような性向のことです。

この性向は、「浪費」よりも治療しがたいものです。なぜなら、老齢や生活力の不足が自己の財産への固執を強め、人々をさもしい者にする傾向があるからです。

また、一般的に人間は「他人に喜んで与える存在」よりも「自分の財貨を愛する存在」として生まれてくるため、さもしさは浪費に比べて、自然的な性質により近いと言えるでしょう。

さもしい人の範囲は広く、その類型は多様です。

さもしさは、「贈与の不足」と「取得の超過」という二つの要因から成り立ちますが、必ずしも両方がそろっているわけではなく、片方のみ成立している場合もあります。ある人は取得おいて超過するが、別の人は贈与において不足しているということもありえるのです。

たとえば、「ケチ」「しみったれ」「シブチン」などと呼ばれる人々は、贈与において不足していますが、他人から財貨を得ようという欲望も強くはありません。

彼らは、「取得において不足するのは、醜悪なことを為すことが決してないようにするためである」と主張しています。また、彼らが取得において超過しないのは、高潔さから、あるいは、醜悪さへの警戒からそうしている場合もあると考えられます。

このような人々の中には「みみっちい奴」と呼ばれる人もおり、彼らは「一銭たりとも他人にあげない」という態度の超過を特徴としています。

さらに、「自分が他人の財貨を得てしまうと、相手にも自分の財貨を要求されるのでは」と恐れて、他人の財貨から遠ざかっている人もいます。このような人は、財貨を他人から得ることもせず、他人に与えることもしません。

「さもしい人」の別の類型として、財貨の取得の点で超過している人は、下賤な商売をする場合があります。売春業や高利貸しなどを営む人は、どこからでも、どんな財貨でも得てくることにより、財貨の取得において超過しているのです。

こうした人々は、しかるべきでない相手から、しかるべきでない額の財貨を得ており、明らかに「良俗に反するような利得」を求めているというのが共通する特徴です。彼らは、たとえ儲けがごくわずかであっても利得のためであれば、周囲の非難も甘んじて受けます。

ばくち打ちや追剥や強盗も、「さもしい人」です。たとえ良俗に反しても、利得のためにことを行い、非難に甘んじるのが、さもしい人の特徴です。

ばくち打ちは、本来財貨を与えるべき親しい友人たちからお金を巻き上げて利得を得ています。一方、追剥や強盗は、儲けのために最大の危険を冒しさえします。どちらも、良俗に反し儲ける人です。このような財貨の取得は、すべて「さもしいもの」と言えるです。

「浪費する人」と「さもしい人」

「気前の良さ」に対して、正反対の悪徳が「さもしさ」です。そしてこの「さもしさ」は、「浪費」よりも深刻な悪徳とみなされます。

実際、多くの人は「浪費」よりも「さもしさ」の点において過ちを犯してしまいます。

浪費する人とさもしい人を比べてみたとき、浪費する人の方が、いくぶんか優れているように思えるのは、彼らの方がより「気前良さ」という徳につながりやすいからです。つまり、与えようとする傾向があるという点において、気前の良い人に近い特徴を備えているのです。

もちろん、その「与え方」は節度を欠いており、しかるべき仕方ではありません。しかし、浪費する人は、年齢や経験、あるいは、実際に財産を失うことなどによって自分の悪癖を治すことが容易であり、中庸(気前良さ)に至る可能性を持っています。

仮に、浪費する人が教育的な導きや必要な配慮により、よい習慣を身に着け、しかるべき贈与や取得の仕方を学ぶなどすれば、気前の良い人になれるでしょう。

よって、浪費する人の人柄は、劣悪ではないように思われます。

財貨を贈与において超過することと、財貨の取得において不足するということは、確かに中庸から離れており、徳とは言えませんが、「悪人」や「卑しい人間」のすることではなく、むしろ「間抜けな人間」のすることだからです。

浪費する人は、無分別であっても、結果として多くの人に利益をもたらすことがあるのに対し、さもしい人のほうは誰にとっても、自分自身にとっても、有益ではないのです。

古代ギリシアの財貨に対する態度から学ぶこと

ある程度の財貨を所有している人は、「儲けること」に対する忌避感をもつ人も少なくない社会において禁欲的な目による厳しい「審査」を通しても、(しぶしぶながらも)市民として承認される、新しいタイプの紳士として受け入れられてきました。

こうした人物には、政治の運営と経済の発展の両方に関する「見識」が期待されることになったのです。

人々の幸福に責任を負いうる公共世界の運営のトップを担う人間と、公共的組織の中で生きるほかのすべての人間がもつべき清潔な金銭感覚についての学説から、現代人も学ぶ点が多くあると思います。


哲学解説一覧

【アリストテレスの解説一覧】

『ニコマコス倫理学』からアリストテレスの思想を学ぼう!【幸福(エウダイモニア)】【徳(アレテー)】

観想(テオリア)的生活こそが最も幸福な人生の過ごし方である。【ニコマコス倫理学】

四元徳①勇気:勇気ある人は美しい行為のために恐怖に耐えることができ、美しい行為をしているから自信を持つことができる。【ニコマコス倫理学】

四元徳②節制:節制と放埓(ほうらつ)とは何か?【ニコマコス倫理学】

気前の良い人=美しさのための財貨を贈与・取得する人(財貨に関する悪徳:「浪費」「さもしさ」)【ニコマコス倫理学】

モバイルバージョンを終了