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参考文献
『ニコマコス倫理学』(上)(下)(アリストテレス著, 渡辺邦夫・立花幸司訳, 光文社古典新訳文庫)
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動画の内容まとめ
↓のレクチャーで、勇気という徳を例に出しました。
このレクチャーでは勇気を「恐怖に対する中庸の態度」つまり「恐怖に対するちょうどよい向き合い方」と説明しましたが、この説明だと少し不十分なのです。
今回はその補足をします。
テーマ:勇気ある人は美しい行為のために恐怖に耐えることができ、美しい行為をしているから自信を持つことができる。
(1)勇気のより正確な説明
そもそも徳(アレテー)とは、時や状況に応じて善い行為を選択できる性向(心の傾向)のことです。
つまり、ある程度徳を備えている人は善い行為を選択しやすく、徳をあまり備えていない人は善い行為を選択しにくくなります。
徳は中庸がポイントになります。
中庸とは「超過も不足もしていないちょうどよい程度」という意味だから、↓のレクチャーでは、勇気とは「恐怖に対する中庸の態度」つまり「恐怖に対するちょうどよい向き合い方」と説明しました。
そして、恐怖が超過しているのが「臆病」で、恐怖が不足しているのが「向こう見ず」と呼ばれているとも説明しました。
ここで補足したいことがあります。
勇気を説明する軸として、「恐怖」だけではなく「自信の大きさ」もあります。
つまり、「勇気は恐怖に対して中庸であり、かつ、自信の大きさという点でも中庸である」ということです。
このように2つの軸で勇気を理解するのが正確な捉え方です。
そして、恐怖が超過して、かつ、自信の大きさが不足しているのが「臆病」で、恐怖が不足しているのが「狂人」、自信の大きさが超過しているのが「向こう見ず」です。
「臆病」と「向こう見ず」は、勇気という徳を備えていない人が陥りやすい悪徳なので知っておくべきものですが、「狂人」に関しては、恐怖の感情を持っていない人のことで、悪徳ではなく一種の病気みたいなものなので、アリストテレスの著作では特に論じられてはいません。
(2)「臆病」「向こう見ず」という2つの悪徳を理解しよう
「臆病」「向こう見ず」という2つの悪徳の性質を理解して、そうならないように振る舞えば、おのずと勇気に近づくことができます。
「臆病」は、あらゆる苦痛を恐れて逃げようとする性質で、臆病な人は自分に自信がないから希望を持つことができません。
また、「向こう見ず」は、自信過剰なゆえに恐れを知らないように見える性質のことです。
向こう見ずな人は、どのようなものにでも立ち向かっていくように見えるので、一見すると勇気ある人のように見えますが、実際は勇気ある人のふりをしているに過ぎません。
例を使って説明します。
例えば、ある権力者がその権力を使って人の尊厳を踏みにじっていたとします。
そのとき、自分が不利益を被ることを恐れて何もしないのが「臆病」です。あるいは、「自分が動いたところで何も変わらない」と何も行動しないのも、自信が不足しているので「臆病」です。
では、その権力者と戦おうとした人が勇気ある人かと言うと、そうとも言い切れません。
その権力者をいさめたり告発したりしようとしても、想定以上の不利益や危険によってその行為をやめてしまったら、それは「向こう見ず」です。
向こう見ずな人は、大きな恐怖や突発的な恐怖に対しては立ち向かうことができません。
なぜなら、自信過剰ゆえに勇気あるふりをしているけど、恐怖に対する中庸な態度を取ることができないので、勇気ある人の真似ができない状況では臆病者のように振る舞います。
この点が勇気とは違うところです。
それに対して、勇気ある人は恐怖の大小によって態度を変えることはなく、不正に対して戦い続けることができます。
(3)そうするのが美しいからそうする。そうするのは醜いからそうしない。
もう少し勇気とはどのような徳なのかを深堀りしていきます。
先ほど、「勇気ある人は恐怖の大小によって態度を変えることはない」と言いましたが、では、何によって勇気ある人はその行為をしようと決めるのでしょうか?
それは、「それが美しい行為であるかどうか」です。
美しい行為は善い行為であり、徳を備えた人が目的とすべき行為です。
そして、勇気ある人は、美しい行為のために恐怖に耐えることができ、美しい行為をしているので自信を持つことができます。
簡単に言うと、「そうするのが美しいからそうする。そうするのは醜いからそうしない」ということです。
では、どのような行為が美しい行為なのでしょうか?
それは、自分の利益のためではなく、みんなのためになる行為が美しい行為です。
これは古代ギリシアという時代が反映されている部分が大きいかもしれませんが、「自分を生み育ててくれた共同体のために勇敢に戦って死ぬことが、もっとも美しい行為である」とアリストテレスは言っています。
「死」という生物にとって最大の恐怖を乗り越えられるのは、「共同体のため」という美しさがあるからということです。
この感覚をそのまま現代に当てはめることはできないかもしれませんが、自分のことだけを考えずに、みんなのことを考えてする行為は、現代でも美しいと感じる人は多いのではないでしょうか?
この美しさを基準に恐怖に立ち向かい、自信をもってする行為が勇気ある行為です。
先ほどの例で言えば、権力者の不正に対していさめたり告発したりすることによって、自分に大きな不利益や危険が降りかかるかもしれませんが、その恐怖を行為の基準とするのではなく、「苦しんでいる人を救いたい」あるいは「社会のために正義を実現したい」、その美しさを基準として戦い続ける、これこそ本当の勇気ある行為と言えます。
このように、「それが美しい行為であるかどうか」を基準にして行為するからこそ、恐怖に立ち向かうことができ、自分の行為に自信を持つことができます。
これが「そうするのが美しいからそうする」の意味です。
それに対して、権力者が恐ろしいから見て見ぬふりをする、あるいは、そのことによって利益を得る、これは醜い行為です。
勇気ある人は、こういった醜い行為をしてしまうことを恐れます。
これが「そうするのは醜いからそうしない」という言葉の意味です。
つまり、勇気ある人は何でも恐れないというわけではなく、恐れるべきものには適切に恐れないといけないということです。
【アリストテレスの解説一覧】
☆『ニコマコス倫理学』からアリストテレスの思想を学ぼう!【幸福(エウダイモニア)】【徳(アレテー)】
☆観想(テオリア)的生活こそが最も幸福な人生の過ごし方である。【ニコマコス倫理学】
☆四元徳①勇気:勇気ある人は美しい行為のために恐怖に耐えることができ、美しい行為をしているから自信を持つことができる。【ニコマコス倫理学】